藤田嗣治はなぜ世界で成功したのか?
日本人離れした戦略的思考に迫る

日本人で初めて、世界で成功を収めた画家と言われている藤田嗣治

2018年には東京都美術館で大規模な回顧展が開催されており、また今年は軽井沢に藤田嗣治専門の美術館が開館しました。

今や、日本近代の最大の画家として広く知られています。

学者からも、アートコレクターからも非常に高い評価を得る藤田。世界中を魅了する”藤田ブランド”とは何なのでしょうか。

藤田は1886年、明治19年に生まれました。1905年に、画家になるという意志を固め、東京美術学校(現・東京藝術大学)に通い始めます。

しかし、反骨精神の強かった藤田は、学校のアカデミックな方針とは異なる作品を制作し、酷評をされていました。 そんな藤田は、1913年、27歳の時にフランスへ渡ります。ピカソやモジリアーニなどの画家と、交流を深めながら切磋琢磨の生活を始めました。

当時の日本の洋画家のほとんどが、フランスへ留学する目的が「技法を学びに行くこと」であったのに対し、藤田はフランスの画壇で成功を収めることを目標に掲げていたのです。

実際に、その目標通り、藤田はフランスの地で作品が大絶賛され、成功を収めます。

その理由とは、まず代表格でもある「乳白色」です。藤田は、「僕は白を白色としてその白色の美しさを土台に使って生かしてみようと思った。」と言い、画材にベビーパウダーを混ぜるなど、独自の技法を編み出し、白色の表現にこだわり抜きます。これにより出来上がった上質な白色は、「グラン・フォン・ブラン」(素晴らしき乳白色)と称賛されました。

次に、日本画で使う面相筆を用いた、非常に細い線描です。同時期に活躍をしている他の画家との差別化を図るために、油彩画でありながら、あえて日本画のように細密な線描と、モノトーンに近い色使いで作品を制作したのです。

もちろん、独自の色彩卓越したデッサン力など、個性際立つ素晴らしい絵画作品によって高い評価を得たことに間違いはないのですが、それだけではありません。

藤田は、自分自身を人々に印象付けるため、様々な自己プロデュースをしていました。有名な自画像からも分かるように、非常に印象的なおかっぱ頭ちょび髭丸眼鏡ピアスを長年トレードマークとしていました。

また、自らを「FUJITA」ではなく、あえて「FOUJITA」と名乗っています。これは、「FOU」がフランス語で「ばか、あほ」を意味しているからなのです。藤田は、人々に自分自身を印象付けるために道化を演じていたのです。

藤田嗣治が世界で成功したのは、もちろん素晴らしい絵画によるものですが、自己プロデュースによって多くの人の心を掴んだからなのではないでしょうか。

藤田嗣治の作品買取をご検討の方はこちら>

藤田嗣治の作品購入をご検討の方はこちら>>

翠波画廊ではその他にも、20世紀巨匠(ピカソミロシャガールなど)の買取・販売もしております。
お気軽にお問い合わせください。

アートニュース一覧